金網の生産は大阪が揺籃の地とされています。これは材料である鉄線の供給の便宜に恵まれていたこともありますが、「河内木綿」産地であった事と切り離して語ることはできません。現在の松原市域は、宝永年間以前(1700年頃)まで度重なる大和川の氾濫に悩まされていました。しかし宝永元年(1704年)に中甚兵衛らの手によって、大和川の改修工事(現在の大阪市と松原市の境界の位置への付替工事)が行われ、以来中河内一帯は湿地帯を形成するようになり、この湿地帯は綿作に適していることから綿作農業が栄えるようになりました。農業が未発達で河内平野の自然堤防や丘陵地の土地利用に苦心していた時にあって、綿作農業の導入がもたらした換金作物の意義は大きいものがありました。すなわち、河内木綿はこの地に家内工業を生み、大阪市内の問屋資本と結びつけました。一方松原市の近隣では、生駒山の水車を利用した製粉・製薬技術が発達しており、天保元年(1830年)に車屋利兵衛が行商の途中に針金(金網の材料にもなる)の注文を受けた記録(実際に作った否かは不明)があります。その後明治10年(1877年)に針金屋安兵衛により水車を利用して伸線がなされました。

 安政の仮条約(1858年)が諸外国と結ばれるとともに、安価で良質な外国綿の輸入が行われ始め、さらに近代的な紡績機械に繊維の太くて短い地元産の綿では適さなくなり、追い打ちをかけるように外綿輸入関税の撤廃により手織りの需要減少へとつながってゆきました。そのためこの地の余剰労働者は、大阪市内へ丁稚奉公に出るようになりました。

 明治35年頃になって、阿保町の岩崎藤吉が大阪市内で金網製造技術を習得して帰村し、金網の生産を始めました。金網製造は、これまでに使用して来た織機をそのまま利用できたこともあって、岩崎藤吉より技術を習得した数名が独立し、阿保地区の旧綿織り業者の間に広まってゆきました。当時は農家の納屋を利用して、周囲の農家より農閑期に人を集め、松の木製の手織り織機で、金網を製造していました。

 昭和の初期頃より金網を手掛けるものが頻繁となり、大阪市内の金網問屋が阿保に出入りするようになって来ました。昭和9年には阿保の地に初めて動力織機が導入されました。

 戦後の25年〜26年には、朝鮮動乱も契機になって急激に成長した金網工業は、松原の地場産業として定着するように至りました。

 昭和45年頃、高速レピア式自動織機が導入され高能率化を実現し、松原の金網工業は世界にその名を轟かせるようになりました。そして現在松原市内で金網製造業を営む事務所は約60軒あり、平織・綾織などの織金網を中心に溶接金網・スパイラル金網・クリンプ金網・打ち抜き金網などを生産し、国内はもとよりアメリカをはじめ世界各国にも輸出されております。またその用途も防虫網や茶こし・ザルといったふだん目にするものばかりでなく、むしろ一般には目に付かないところで、あらゆる産業の重要部分に数多く使用されており、特に最近では精度の要求される電磁波シールド、スクリーン印刷、自動車のエアーバック、半導体、航空宇宙工学、その他ハイテク産業用の金網も開発されるなどますます広がりつつあります。

 また、金網の町「松原」とその名を轟かせている理由の一つに、ハイメッシュ金網の製織技術があります。世界で最高に細かい800meshは、クモの糸の様に細い16μ(ミクロン)のステンレス線を使って織り上げた綾織金網で、製品は絹の様にしなやかで1cuに99,225個もの網目があります。このような高度技術は長い歴史の中で、何人もの職人たちが苦労して築き上げてくれた無形の財産です。 (参照:「松原市の史跡」「松原警察署史」他)